とあるお宅の倉庫サイトのブログ 【最近:自分の創作におぼれている!▼】
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忘却のかなたへ苦痛を置き去りに
人間はいいことしか覚えられないよ。
あまりの天気の悪さに外出断念。折角の休みなのに。
さて、肉体的な意味で痛い話。先日少し触れた部位の話。
痛い話嫌な人は見ちゃダメヨ!あと真面目腐った話が嫌な人もね!
というわけで本文は追記から。
あまりの天気の悪さに外出断念。折角の休みなのに。
さて、肉体的な意味で痛い話。先日少し触れた部位の話。
痛い話嫌な人は見ちゃダメヨ!あと真面目腐った話が嫌な人もね!
というわけで本文は追記から。
右手親指は軽傷、左手親指はそれよりも更に軽傷。
絆創膏をはがして傷口を突っついてみたらやっぱりなにがしかの刺激がある。
触らなければ刺激はないのだが。あたりまえか。
やめておこう。そう思うと同時に、弄ってみたいという興味も湧いてくる。
どうなるだろうなあ。また血出るんだろうか。血が出るならやっぱりやめておこう。
知的好奇心というにはあまりに愚かしいが、そんな脳内葛藤。
爪ネタは小学校の時のドラマだったかサスペンスだったかで
テロリストだか何だかが人質の女性の爪(実際は付け爪)を剥がして
女性の劈くような悲鳴がこだまする…というシーンを見てしまって以来
そういう文章を見るだけでその映像が鮮明に思い出される、という
トラウマというには軽いかもしれないが、そういうことが今でもある。
見ている当時ですら「あれは付け爪だ」と解っていたにもかかわらず
その剥がれていく爪と剥がそうとする手の躊躇のなさ、そして女性の悲鳴が、
思わず顔を背けたくなるほどに恐怖だったのだ。
なので、恐怖があるときは親指の爪を隠すように拳を握る、とか
爪の先を指の腹で撫でるだとか、そんな感じの癖がある程度ながら
自分なりの苦痛に対する恐怖があったようなのだが
それがどっこい、中学ぐらいから爪付近の怪我を連発してみると
確かに痛い、痛いのだがそのうちどうやら「慣れ」が付いてしまったらしく
幼い頃に持っていたほどの危機感はなくなっていたりする。
時間の経過なのか、痛みを重ねたことによる楽観かはわからないが、
あの時の恐怖を軽んじてしまうことにひどく違和感を感じる。
…それでも、今でもはっきりと思い出せるほどにあの映像は記憶に強いのだが。
爪付近の怪我をしたときは、傷を見ないように、爪の形を戻すように
反対の手で指を握って、親族等々に伝えて協力を頼む…という
必要な応急処置(もちろん、やるべき至極普通のことなのだが)を
慌てることなく素面でやれるようになってしまったこの頃に
今回の件でようやく気付いて、なんだかなあ、という気分なのだ。
どうやら(やはり、というべきか)、幼かった自分があの時に感じた恐怖は
「苦痛」自体への恐怖ではなく、「未知の苦痛」への恐怖だったらしい。
なんというか、残念だ。いや、別に自分がマゾヒストとかそういうことではない。
たとえ痛みだとしても、知らないことで新鮮だった世界が
突然静止してしまったようでつまらないのだ。
全部剥がれたことがあるわけではないので、
それはやはり今でも「(未知の)恐怖」ではあるのだが。
爪ではないが、丁度指がすっ飛ぶ、という状況もある。手は反対だが。
左手。親指。自分が小学校の時。自分ではないが、短くなった親指。
繋いだ皮、肌に浮かんでる神経、血の廻らない、爪のない冷たい指先、
それを見ている、のだ。
…考えるのはよしておこう。
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