とあるお宅の倉庫サイトのブログ 【最近:自分の創作におぼれている!▼】
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Yo quiero que a mí me entierren como a mis antepasados
いつのときも、大災害のニュースは体が痛い。
最近見た犬の映画のこともあるのだろうけども、恐ろしく体が軋む。
血はだめだ。怪我もだめだ。病気もだめだ。
健康で健全な体が幸せだ。ありがたいなあ。
ぼんやり部屋を見回しながら考える。
この棚は倒れるだろうな。じゃあここにいたら間違いなく潰れるな。
ベッドの上はどうだろう。ガラスが近いから危ないかな。
パソコンのデスクはどうだろう。頭上にものがあって危ないか。
押入れの中にでも入ろうか。この中も箪笥で危ないな。
ああ、自分の部屋に逃げ場所は無いな。外に出るしかなさそうだ。
田んぼの真ん中なら大丈夫かな。電柱や木だけ気をつけないとな。
逃げられなかったら苦しいんだろうな。
家族はちゃんと逃げられるんだろうか。あの人たちは大丈夫だろうか。
手が届かぬところまでは助けられないか。苦しいな。
そもそも自分がちゃんと逃げ切れるなんて決まってないか。
うーん、死ぬかもしれないな。
と、ここまで考えてどっと疲れたので考えるのをやめた。
自分が死んだ後を考えるのが怖かった、ともいう。
元気だった人間が老いていく内にぼけていくのは、
日々近付く死を考えないようにするための自己防衛らしい。
…という話を聞いたことがある。
なるほど、死ぬことを考えると確かに気狂いしそうだ。
思ってる以上に人間の体は高性能なのか。驚いた。
いつか死ぬことは頭に入れておくべきだが、
そればかり考えていると疲れる。
というか、考える暇があったら飯を食うなり寝るなりやることするなり
もっと別のことをした方が第三者から見たら有意義だな。
こういう文章書いている間にやることも減らせそうなもんだが
頭が回らない間の息抜きということにしておこう。
原稿用紙?見えない見えない。
さて話が盛大にずれた。地震の話だ。
確かに大きなことであったのは確かだけれど、
その地震のみが特別なことだと強くは思わない。
別のことにだって多くの悲しいことがあった。
大津波だとか、旅客機が引き起こした戦争だとか、
恐ろしい破壊兵器であるとか、
血を分け合った人間の失い合いであるとか、
爪痕が残ることであろうと違おうと、
すべてが等しくかなしいことではないのかな、とは思うのだ。
大きな地震があった。たくさんの被災者が出た。かなしいことだ。
大きな津波があった。たくさんの被災者が出た。かなしいことだ。
戦争が起きた。たくさんの戦死者が出た。かなしいことだ。
殺人事件が起きた。人が死んだ。かなしいことだ。
規模が大きくないからかなしいことじゃない、なんて思えない。
…毎度ながら、こういうことを引き合いに出すことが
論点のズレを呼んでる気はしなくもない。けれど、
道端に置かれた花束を横目に見ておきながら、
向こうで大変なことがあったから と
目を背ける、無視するのはもっとかなしいことだ。
規模が大きいというのは、関わる人、かなしむ人が多いということだ。
自分だって恐ろしい、かなしいと思う、けれど、
他にもたくさんかなしいことがありすぎて、感覚が分からないのだ。
一ヵ月半前後で人の死ぬ悲しみは納まるものか。
現にこうして十数年経ってもかなしまれているじゃないか。
地震が起きたとき、母親と一緒にゆらゆら揺られていた。
揺れてるね、そうだね、と天井を見つめていた。
遠くでたくさんの人が苦しんでるなんてまったく考えも及ばなかった。
後に知っても、幼い自分にはよく分からなかった。
あの揺れで自分の知らない誰かがいなくなる、とは、考えても分からなかった。
被災地はゆらゆらどころではすまないということも想像が追いつかなかった。
それがようやく分かったのは小4の時だ。
夢を見た。隕石で自分の知る町がすべてまっさらに壊れる夢。
どこかに逃げていたことで生きていた自分は、ひょっこり顔を出すと
瓦礫の陰、瓦礫の中に友達の姿を探すのだ。
AとYはどこ、Sは。どこ、どこにいるの、出てきてよ、と。
やがて高かった太陽が傾き始め、日が沈む夕焼けの中で呆然と、
「 仲間外れにしないで 連れて行ってよ 」
叫んで叫んで嗄れた声で、そう呟いたところで目が覚めた。泣いていた。
前触れもなく大事な人間を失うことを体感して、本当に恐ろしかったのだ。
身に降りかからない悲劇は喜劇だ、という言葉がある。
こうやって悲しいと思ってるのも、もしかしたらまだ上辺かもしれない。
我ながら冷たい人間だよなあ、と思いながら歌を聴いた。
わたしを埋めておくれ と。
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