とあるお宅の倉庫サイトのブログ 【最近:自分の創作におぼれている!▼】
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生けとし生けるものはその大半が複数の心を持っているのだろうと、短い人生を振り返って考えている、と。
唐突に切り出された話は、顔に似合わない真面目そうな声色で始まった。…正直、私は面食らった。彼奴、近々死ぬのではないだろうか。
複数の心というのは、例えば──昼下がりに腹が減って、何かを食べようと思った。間食で夕食まで保たせるか、何も食べずに夕食まで待つか、と迷う。など。
そういう簡単なことから、深刻なことまで。生きている以上は、必ず複数の心があらゆる多数の結論を出し、其処から本人が正しいと思う判断をしているのではないか。そう、短い人生を振り返って考えている。
一本気に生きているひとは、たまたま其れまでの人生で内の複数の心が同じ判断を下してきただけのこと。自分に正直とはそういうことで、そんな人生は恐らくひとを理解し得ない人間をつくる。一通りしか答えが浮かばないのだから。
話が逸れたが、其の複数の心から生まれるのが、矛盾。つじつまの合わないものが、生まれる。
深刻な顔をするでもなく、明るい顔をするでもなく、無表情な顔というよりは無感情な顔で、その「青二才」(名前を出したいところだが、本人の請願によりそう表記する)は言っていた。
一つの心は、この矛を通さないものはない、という。
もう一つの心は、この盾を通すものはない、という。
其処へ、立ち会いがあの台詞を言うのだ。
「その矛でその盾を突いたら、果たしてどうなるのか。」と。
商人が答えられる筈は、ない。商人の言葉は両方とも真実であり、それと同時に両方とも嘘でもある。
複数ある心の内に、きっとその疑問もあったろう。が、不都合は無視しようとするのが人間の──いや、生きているものの習性だ。しかし、完璧には無視しきれないのも、生きているものの習性である。
であるから、本来ならば立ち会いのような意地の悪い横槍をあまり入れていいものではない。聡いものは、あぁ、あんなことを言っているのか、商売は大変なのだなと、苦笑混じりに見守っていればいい。
突っ込んだ所で、ただ意味もなく相手を打ち負かすだけだ。それが将来的にどんな得になるのか、一度訊いてみたい。そう言ったので、損得などではなく単に優位に立ちたいだけだろうと言っておいた。形はどうあれ、得した「気分」にはなれる。あくまで気分だ、後には損をするだろうが。
勝敗の存在する所に──というより、勝敗しか存在しない所によい人間関係は存在しないという。
勝敗というのは上下の区別を決めるものでもある。勝者は優越感を得られるだろうが、敗者が優越感を得ることは決して有りはしない。敗者が得るのは自分を打ち負かした相手へ対する反抗だ。
反抗というのは、自分ないし自分の考えを正当化し、逆にその反抗の対象を否定する構え方だ、と捉えている。
否定というのは、認めないこと。認めないというのは、否定。ほぼイコールであり、要するに首を横に振ることをいう、のだそうだ。とある国では首を横に振ることは「イエス」扱いとなるのだが…まぁ今は日本の話なのだから、と突っ込まずに黙っておいた。商人を眺めている立ち会いの気分である。
反抗が勝負を生み、勝負が勝敗を生み、勝敗が反抗を生む。恐らく、横から見ていてこれほどくだらないことはない。何をやっているのか、本人達以外にはさっぱり意味が解らないものだ。意志や意思を明確にしていても、理解し得ない場合は多々有る。そして、理解の出来ない解らないものには、保守的なものは誰しも近付きたがらないものなのだ。
だが、本人達は周囲のそんな冷めた表情とは対照的にえらく必死そうだ。自分が認められるか否定されるかがかかっている。その上何よりも、負けたくないという根底があるのだろう。それもまた、他人から見ればくだらないことなのだが。
繰り返し記すが、勝敗しか存在しない所によい人間関係は存在しないという。
勝負の原因であるものは、大抵どちらかが何かを否定することから始まる。これもまた、くだらないことだ。考え直してみれば、人間はその人間自身も不思議に感じるほどに、くだらないことが好きらしい。
勝負なんて無理にする必要は無いのだ。特に、負けると解っていながら勝負を仕掛けるなどというのは、後悔のもとになりかねない。だからこそ、余計に。
勝負に勝ったものよりも、勝負を申し込まれてもさらりと受け流せるものこそが、本当の勝者ではないかとも考えられる。自らの肯定を守れる人は、強い。
勝敗のみで解決しようとするから否定が生まれるのだと、この青二才は言う。なれば他に何が必要だと問えば、複数の心の内の一つが、認めることが必要だ、という。
暴言混じりに言うなれば、何が正しいだの何が間違っているだのと煩いのだ。是非を言うのは簡単だろうが、非と告げられれば腹が立つのは当たり前。誰でも、自分が正しいと信じていたいものなのだから。
少し外に出て足下の草むらを探しても、正しいだとか間違いだとか、そんなものは見つからない。だから、植物の中には勝敗がない。
どっちのタンポポがより遠くまで種を飛ばせるかとか、どっちがより早く四つ葉のクローバーを見つけられるかとか、そんなことは側で人間が勝手にやっているだけだ。当の植物達はそんな雑音を横流しにして、どうやって子孫を残そうか、どうやって生き延びようかと一生懸命になっている。
いつ生き物達に食べられてしまうか解らないし、いつ人間の遊びに巻き込まれるかも解らないのだ。逃げる足を持たない植物達は日々危険と隣り合わせだから、気にしてる暇なんて存在しない。
まぁ…そんな生き物達を利用して成長したり繁殖したりする植物もいるのだから、もしかしたら人間より植物のほうが賢いのかもしれない。
とかく人間は愚かな生き物で、無駄な事が大好きだ。その上生きている人間の何割かは、自分は正しいという妄想に取り付かれているらしい。
過去にも未来にも勿論今現在にも決して少なくない数の人間が、それは何か違うと薄々感付いている。しかし、この勘違いはどう足掻いても直らないし直せない──寧ろ治らないし治せないときたものだから、どうしようもない。
この勘違いという名の病に掛かったものは、人間の手では救いようがない。更にこの病は末期になると、俄かには信じられない程の力を病人に与えるのだと、同じ人間である筈の青二才は言う。そして、自分もその病人の一人だ、とも言った。そう紡いでいた口許は、他人事を話しているようだったと聞く。
「贅沢」と銘打ってあらゆるものを無駄にするのは当たり前。
「延命措置」と称して生き物やあるいは人間でさえも苦しみの中で耐えさせる。
「権利」と言い張り同類である筈の他の人間より優位に立とうとする。
「法律」を作り自ら人間の首を絞める。
「仲間」がいないと不安になる。
「地位」と「金」に極端に弱い。
「夢」を見るのが大の得意。
「きれいごと」で汚いものはとにかく隠す。
―――此処までで、文章はぷつりと切れた。
結局何が言いたかったのかは分からない。
自分は何故、何時、こんな文章を書いたのだろうか。
…きっとそのときのノリだったに違いないと、鼻で笑った。